歴史探訪54:藤沢の筆子塚(ふでこづか)
―寺子屋の生徒が師匠の死後にその遺徳を偲んで建てた供養塚―
2025年2月11日 (itazu)
筆子塚(ふでこづか)をご存知ですか。
筆子塚は、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋で学んだ生徒たちが、師匠の死後にその遺徳を偲んで建てた供養塚や墓です。

◆寺子屋で学んだ子供たちは「筆子」と呼ばれました
江戸時代には、商業や手工業が発展し、教育を受けた人材が求められるようになりました。
寺子屋は、中世寺院の学問指南が起源ですが、江戸時代には、庶民にも教育の機会を提供する役割を果たしました。寺子屋で学んだ子供たちは「筆子」と呼ばれ、読み書きや算術を学びました。師匠は生徒たちにとって生涯の師であり、その教えを感謝し、供養のために筆子塚を建てました。
動乱の江戸末期の村社会は、読み書きの良い師匠による手習いの機会を設けることが村復興努力の一つになっており、この頃に筆子塚が全国に多くみられるといわれます。
←写真は、善然寺の筆子塚:36世喜誉住職の墓で下部台座に「筆子中」の文字が見えます。「筆子中」は「筆子一同」といった意味になります。
◆藤沢にも北部(長後、御所見)に遺る筆子塚
藤沢市に遺る筆子塚は、主に北部の長後地区(下土棚)、御所見地区(菖蒲沢、打戻、獺郷(おそごう))など見られます。「電子博物館・ゆみねっとふじさわ」では、市指定記念物(史跡)として、◆下土棚・善然寺と◆菖蒲沢・浄土院の筆子塚が紹介されています。いずれも僧侶が師匠となっています。両寺とも浄土宗で、互いに密接な交流があったようです。
今回、両寺院の筆子塚を訪ねました。
◆下土棚・「善然寺筆子塚群五基」(市指定記念物)

江戸前期の開山以来、歴代住職の墓碑は15基を数え、その内5基が筆子塚です。寛延4年(1751)没の潤誉をはじめ、元治2年(1865)に没した喜誉までの5人の住職が寺子屋を営んでいた様子がうかがえます。約100年にわたり継続された例は珍しく、寺子屋開創の時期は浄土院よりわずかに早かったようです。筆子は潤誉の34人を筆頭に10人ほどが造立しており、中には記銘も見える塚もあります。
(平成4年(1992)2月1日指定)
「電子博物館・ゆみねっとふじさわ」による)


◆菖蒲沢・「浄土院筆子塚群五基」(市指定記念物)

浄土院の歴代住職の墓碑は9基あり、その内の5基が筆子塚です。江戸時代の慣習として、寺の住職の専住は稀で転住を繰り返し、当寺で亡くなった住職のみが葬られました。寛政9年(1797)に没した輪誉から25世勲誉までの約半世紀、5代にわたって寺子屋が継続されたのは珍しいことです。筆子塚とは、江戸時代、寺子屋で学んだ幼童(筆子)が、師の報恩のために墓碑を建てて供養したものです。寺子屋教育は社会奉仕の一つであると同時に、住職の生活費にあてる目的もあったようです。
(平成4年(1992)2月1日指定)
(電子博物館・ゆみねっとふじさわ」による)

歴代住職の墓地:筆子塚群五機

◆参照資料:「藤沢市教育史 史料編第1巻」「藤沢今昔:筆子塚(藤沢風物)」電子博物館・ゆみねっとふじさわ」
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 ☑ 2024年〇月〇日